――シンオウ地方、テンガン山中腹。

 美しかった空の色は夜よりも暗い闇に覆われ、降り積もった雪の白さも相俟って奇妙なコントラストを描き出している。
 時折、何処か遠くで誰かが戦っているらしい爆発音が聞こえる以外は異様な程に静かなテンガン山。
 それが周囲の音を無意識に遮断している自分自身のもたらした結果だと、ただ一人で俯き悪路を行く男――カジノディーラー然とした服装の上に申し訳程度のコートを羽織った彼には分からなかった。

 シンオウ騎士団の拠点である城の落城と三賢者の暗殺は失敗に終わり、彼の“カロスファミリー”としての仕事は一つの山を越えた。
 しかし城で出会った嘗ての想い人――ミーシャ・リンクスとの再会によって、思考はどんどん掻き乱されていく。

 彼女を振り切りテンガン山へ向かい、其処で再会した女軍人のミライと共に戦った。指令を受けて、カロスファミリーの所有するホテルへと移った。
 しかしそれでも、彼の心が安定する日はまだ来ない。
 ロイド・シルヴェスターとしての意識とダイス・ハロウとしての意識が混在し、口調も他人への接し方も人格も精神状態も全てが曖昧な苦痛と日々を過ごすしかなかったのだ。

 仲間と会話を交わす時間も、めっきり減ってしまった。
 彼を心配して同居人のコペルニケルや友人のコルテ、上司に近い存在のモネなどが度々話し掛けて来てくれたけれど、今の自分は誰が誰なのかよく分からない。
 ダイス・ハロウの頭の中には仲間である、親しくしていた、という“記録”があるけれど、いざ本人達を前にしてもロイド・シルヴェスターは誰のことも知らないのだ。混在する意識と記憶は、じわじわと彼を苦しめる。
 相棒とも接する時間は短くなり、今日も危険を理由にホテルで待機させた儘である。出掛ける時の寂しげな眼差しに胸が痛んだけれど、きっと彼にとって今のフェネインはどうしても頼れる相棒とは呼べないのだ。

 あれから、彼を心配し態々ホテルまで訪ねて来たミーシャに連れられて嘗て縁のあった地を巡った。
 幼少期によく遊んだハクタイの森、事故に遭った211番道路、そして――生家、シルヴェスター邸。
 “彼”が初めて足を踏み入れた其処は何処か見覚えがあって、初めて会う筈の両親も確かに顔立ちが似ていると感じた覚えがある。
 されど幼少期に引き離され、十年以上顔を合わせなかった――謂わば“血縁のある見知らぬ大人”との会話が弾む訳も無く。
 恐る恐る口にした「……初めまして、ロイド・シルヴェスターです」という挨拶すら、母親を名乗る魔女と父親を名乗る魔法騎士は困惑したように彼を見詰め互いに顔を見合わせるのみ。
 居た堪れなくなって大した言葉も交わさぬ内に逃げるようにその場を辞してしまったのは、未だ胸の内に苦さを残している。 

 自分が何者なのか分からない。
 記憶を失う前のロイド・シルヴェスターなのか、記憶を失った後のダイス・ハロウなのか。
 「邪魔者を排除せよ」というレディ――イベルタルからの特別命令、それだけを指針に彼は此処まで歩いて来た。

 世界が闇に覆われてしまった、だからその原因であるダークライを倒さなければ!

 ……なんて言ってみたところで、所詮それはファミリー全体の目的であり彼の意志ではない。
 自分の意志など、そもそも“自分”を持ち合わせていない現在の“彼”には無いも同然。上層部の意志をそっくりそのまま真似て、我が身を動かしているに過ぎない。

 嘗て、彼にダイス・ハロウの名を与えたマフィアの男は言った。ハロウの文字には、虚ろな、空洞の、という意味がある。記憶を失ったお前に相応しい――と。
 そして今、記憶を取り戻した彼は空っぽで虚ろだった。空洞を満たした筈の彼は、自分自身を見失ってしまったのだった。

 これから歩いて歩いて、どうすれば良いのだろう?
 テンガン山の頂きへ向かい、ダークライを撃破するというのが現在の目的だ。では、それが終わった後は? この戦争が終わった後、自分は何処に行けば良い?
 武器だった擬似多重人格は、それを可能にしていた基盤――元々の記憶が空であるという前提が崩れ使えなくなった。正確には、切り替えの仕方が分からなくなってしまったのだ。
 全てが中途半端に混ざり合い、後から作り上げた六人格と生来の人格との境界が揺らいでいる。ああ、もし人格――人間の個性に色が着いていたとしたら、きっと今の自分は様々な色の混ざった汚い黒色をしているのだろう!

 もう、いっそ歩くのを止めて雪に埋もれてしまおうか――そんな考えが、ふと頭を過った直後だった。
 真っ白な雪景色の向こうに、揺らめくような灰色が佇んでいるのが見える。否、灰色は佇んでなどいない。ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近付いて来ている。

「……誰だ?」

 呟く言葉すら、まるで自分の物ではないかのように聞こえてしまう。けれどそんな事もお構い無しで、灰色は徐々に立ち止まった彼へと一直線に向かい――そして、止まった。
 彼が自分を視認出来る距離まで。自分が――彼と同じ容姿を持った“影”であると、分かる位置で。

『やぁ、初めまして。君を殺しに来たよ――ダイス・ハロウ。……それとも、ロイド・シルヴェスターと呼ぶべきかな』

 真っ赤な髪にカジノディーラー然とした衣装、奇抜な黄色のシルクハット――彼と全く同じ姿をしながらフィルターを掛けられたかのように黒い“それ”は、そう言ってくしゃりと眉間に皺を寄せ口元を歪めてみせた。
 とても笑顔とは呼べぬ、醜い表情――彼は、その光景をよく知っていた。

 他でもない、幼少期の自分と同じ表情。泣き顔も、笑顔も、怒りすら満足に浮かべられなかった“空虚な”子供だったあの頃を否が応でも思い出させる、その顔。
 ちくりと胸を刺される苛立ちに、彼は真っ直ぐ影を睨んで吐き捨てるように答えを返した。

「……どちらでも、アンタの好きなように」

『じゃあ、此方がロイド・シルヴェスターを名乗らせてもらうか。今の君はどちらとも呼べるが、どちらかと言えばダイスの方の意識が強いのでね。
 影であるからには……対極であり同一の存在、ロイドの意識を貰うとしよう』

 眉間の皺を深めて、笑顔の真似事でもするかのように目を細める影。そんな姿を見ていたくなくて、彼はポケットから取り出した六面ダイス――ではなく、投擲用の鋏を構える。
 もうサイコロは使えない、使ったところで意味が無い。切り替えられない人格は、無いに等しい。

『おいおい……そんなに睨まないでよ、同じ自分じゃないか。
 ――それとも、死に損ないの過去はお嫌いかな? ダイス・ハロウ』

 ヒュンヒュンと音を立てて、影はプロペラ型のブーメランを指に引っ掛け回す影――嘗てロイド・シルヴェスターが殺そうとして殺し損ねた存在を、彼はただ黙って見詰めている。
 そして、答えない彼を見た影はふっと口角を上げて――ブーメランを、放った。

 影と本体、自分と自分、そして受け入れがたい過去と認めがたい現実。
 互いに向かって駆け出した二人の戦いの先を、ただ雪だけが知っている。

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(お名前だけお借りしました!)
コペルニケルさん@Aノ193さん宅
モネさん@黒壱こうたさん宅
コルテージュさん@アヤさん宅