「はっ……はっ……」

 荒い息を弾ませて、何処に続くとも知れない道を走る。

 頬は零れる涙に濡れ、体中に嫌な汗がべっとりと染み付く。真っ白だった運動靴は、何時しか泥と赤い水に塗れて汚れてしまっていた。

 

 

 嫌われた。

 お母さんに嫌われた。

 あんなに必死で窓を叩いても、お父さんとお母さんは私を見てくれなかった。

 どうしよう。

 家出なんて、しなければ良かった。

 私が家出なんてしたから、お父さんとお母さんはこんなことに巻き込まれちゃったんだ。

 今思えば、日記を見られたくらいであそこまで怒ることなんて無かったんだ。

 求道師様ともはぐれちゃった。お父さんとお母さんにも拒絶された。私は、一体何処に行けばいいの?

 

「お母さぁん……」

 

 泣いても泣いても、涙は留まる所を知らない。

 後悔と、自責の念と、悲しみの波が後から後から襲い来る。

 幾ら涙を流しても、誰も助けに来てくれない。その現実だけが、私の心を浸食する。

 

 ああ、脚が重い。もう歩けない。

 此処なら誰にも見つからない?否、見つかるのも時間の問題?

 逃げなきゃ。でも進めない。

 私は、舗装されていない泥だらけの道に膝を付いた。

 

 

「助けて、天使様。………助けて、求道師様!」

 

****

 

 狂ってる。この村も、彼も、全部。

 一体何故。嗚呼、私が儀式に失敗してしまったから?

 

 宮田医院を抜け出し、只がむしゃらに道を走る。

 全身を切り刻まれ苦しむ女性の悲鳴が、今も耳にこびり付いて離れない。

 その身体を見下ろして哂った、私と同じあの顔も。

 どうしてあんな事が出来るんだろうか。どうして、彼と私はこんなにも違うのだろうか。

 

 カルテらしき物を渡されたが、「切断」と「切開」の二文字があちらこちらに踊っている。あんな物、見るのもおぞましい!

 兎に角、今は八尾さんと美耶子様を探さないと……! 

 どうにか二人を探し出して、儀式をやり直さなければ!

 

 しかし、探すといっても宛ては何処にも無い。しかも、この村には得体の知れない化物達が徘徊している。

 

 どうして? 何がどうしてこうなってしまった?

 私が? 私が儀式に失敗してしまったから?

 求導師であるこの私が、27年前のあの時と――養父と同じように儀式に失敗してしまったから?

 

 養父はあの後死んだ。儀式を果たせなかったから。罪の意識に耐えかねて死んでしまった。

 じゃあ、私も? 私も死んでしまうのだろうか?

 

 嫌だ。そんなの嫌だ。まだ死にたくない。

 けれど、儀式を失敗した求導師、何の肩書きもない私に、果たして存在価値があるのだろうか。

 

 恐らくは――でも、そんなの認めたくない…………!

 

 養父の姿に自分の姿が重なった。

 不必要とされた自分の亡骸は、誰の目に留まる事も無く朽ち果てていく。八尾さんにも、村の人達にも、誰にも……。

 

 違う、今はそんな事を考えている場合ではない!

 脳裏に浮かぶ最悪のイメージを振り払い、周囲の景色に意識を集中させようとした。

 

 

「……あれは」

 

 不意に、見覚えのある赤が道の向こうに見えた。

 赤は背を丸め項垂れたようにしながら、とぼとぼと道を歩いている。

 その背が酷く悲しげで、放って置けなくて、私は、思わずその赤に駆け寄った。

 

 

「知子ちゃん! ……良かった、無事だったんだね」

 

 私が蛇ノ塚で、不本意ながらも見捨ててしまった少女。赤ジャージの女の子。

 声を掛け肩を軽く叩くと、彼女は僅かに顔を動かし反応する。

 しかしあの時の事を未だ許してくれないのだろうか。此方を向く事はせず、結果的に私は俯く彼女と並んで歩くような格好になった。

 

「昨日は本当にごめんね……。あの後、私も助けに行こうとしたんだけど……」

 

 ただ、銃弾に遮られて行けなかっただけなんです。そう続けるも、彼女は此方を見てくれない。

 ……嘘は吐いていない、絶対に。

 けれど、矢張り彼女は辛かっただろう。

 それ以上何も言葉を掛けられず、気不味い沈黙が漂う。

 

 ……彼女に取って、あの時の自分は酷く情けないように見えただろう。

 それはきっと、村の人達にとっても同じこと。

 儀式を失敗した求導師、ああ何て滑稽で惨めな姿だろう。

 

「……良いの。あの事は、もう良いんです。求導師様」

 

 徐に彼女が言葉を発した。 

 ……ああ、良かった。彼女は私を許してくれていた。

 でも、彼女は此方を見てくれない……何故だろうか。

  

 彼女は此方を見ないまま、尚も続ける。

 

「さっき、教会でお父さんとお母さんに会ったんです。でも、二人とも私のことを許してくれなかった……」

 

 平坦だった彼女の声に、悲しみの色が交じる。

 小さく震える肩に、思わず手を載せた。

 

「大丈夫だよ。前田さん達も、きっと知子ちゃんを許してくれるよ。知子ちゃんはこんなに良い子なんだから……ね?」

「……本当ですか?」

「うん。もう一度教会に行って、お父さんとお母さんに謝ろう? 私も、一緒に行ってあげるから」

「……有難う御座います、求導師様。

 でも、もう良いの。求導女様が、もっと良い所に案内してくれたから」 

「………えっ?」

 

 急に彼女の歩みが止まる。

 彼女の言葉の意味が解らなくて、私も立ち止まった。

 求導女様? 八尾さん? 何故、彼女の口からその言葉が。それより、一体何処で?八尾さんはまだ生きている?

 

「求導女様って……八尾さん!? 知子ちゃん、八尾さんに会ったの? それに、もっと良い所って……」

 

 一体何の話。そう、聞こうとして言葉が途切れる。

 ゆっくりと此方を向いた彼女は、混乱する私を余所に笑っていた。 

 

 

 

「かみさまのところ」

 

 

 尋常でない白さの肌。幾筋も流れる鮮血ような色の涙。白く濁った眼。

 彼女は、既に異形と化していた。

 

 

「知子……ちゃん……?」

 

「求導女様が、神様の所に連れていってあげるって言って下さったの。聖なる水を飲んで海の向こうに行けば、神様の所に行けるんだって。

 ほら、求導師様も見て? 凄く綺麗でしょあの景色。天使様も、求導師様を歓迎してくれてるみたいですよ」

 

 青白い指が指す方向を見ても、綺麗どころか濁った曇天しか見えない。なのに、異形の彼女は楽しそうに続ける。

 

「お父さんとお母さんが居ないのは寂しいけど、求導師様が一緒なら私、寂しくないよ。

 だから、ずっと一緒に居ましょ? 私、求導師様と一緒が良いな」 

 

 これも全部、私が儀式に失敗してしまったから。

 何の罪もない幼子まで、化物に成り果ててしまった。

 私の所為だ、全部………。

 

 絶望に染まる視界の中で、青白い物が徐々に接近してくる。

 首筋にひやりとした感触が伝わるまで、それが何なのか認識出来なかった。

 

「ッ……あっ!」

「ずっと一緒。求導師も、聖なる水を飲んで……」

 

 苦しい、苦しい苦しい息が出来無い……!

 冷え切った細い腕が私の首を握り潰さんばかりに圧迫する。

 このままだと死ぬ? 今死んだら、私も化物に成り下がってしまう。でも、そうすればこれ以上プレッシャーを背負うこと無く楽な道を歩めるのだろうか?

 

 けど、死んだら八尾さんに会えなくなってしまう。それだけは嫌だ……!

 

 

「ぐっ……あ、が、離して下さいッ!」

 

 悲鳴にも近い声で叫び、彼女の腕を振り解く。

 異形化しても、腕力は女子中学生のそれ。意外とあっさり解放された。

 

 勢い余って地面に座り込む私。対する彼女は、腕を伸ばしたまま呆然とした様子で固まっている。

 ああ、こうしてはいられない。早く逃げないと!

 

 脚は縺れ立つのもやっとだったが、それでも私は彼女が次の行動を起こす前に逃げ出した。

 二度も彼女を見捨ててしまった。そんな罪の意識と戦いながら。

 

 ごめんね、ごめんね、知子ちゃん。

 私には、矢張り求導師なんて名乗る資格は………。

 

 

*******

 

「………求導師様」

 

 拒絶された。大好きな求導師様にも、受け入れて貰えなかった。

 あんなに優しい人なのに。やっぱり、私が悪い子だから?

 

 また戻ってきてくれるんじゃないか。そんな期待を込めて求導師様が走って行った方を見る。

 でも、誰も来ない。来てくれない。

 再び独りになった道で、私は涙を流し歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 どれくらい歩いただろう。

 周囲には、家が立ち並んでいる。

 不意に、肩を叩かれた。

 

「ごめんね、知子」

 

「お父さん……お母さん………!」

 

「……知子。知子の日記、勝手に見てごめんなさいね……」

 

「ううん、良いの。もう良いのお母さん……! 私も、家出なんてしてごめんなさい!」

 

「まぁ、こうして無事に家族が揃った訳だし。良いじゃないか。………さぁ、家に帰ろう。知子」

 

「うん、お父さん!」

 

 よかった、おとうさんとおかあさんにゆるしてもらえた。

 これからは、さんにんずっといっしょだね。

 

 ……きゅうどうしさまも、きてくれればよかったのにな。

 

 

 

 

 

 

でぃあ、まいふぁみりー

 

 

 

(救えなかった不幸な男)

(救われなかった幸福な少女)

 

(2011/03/20)