何時からだろうか、私が此処に居るようになったのは。
気づけば私は、この空間に一人きり。
色のない、無限の部屋。望む物は、何でも目の前に現れた。
「りんごが、たべたいです」
目の前に、真っ赤な果実。齧ると、甘い汁が口いっぱいに広がる。
芯を捨てるゴミ箱が必要かな。そう思考した瞬間、林檎の芯は掌から消えて無くなった。
便利な物だ。
そうして私は再び、何も無いこの空間で自由なことをする。
読書も、ゲームも、眠るのも、好きな時に好きな事が出来る。とはいえ、私に時間という概念は必要無いのだが。
この空間に、時計やカレンダー等の時を知らせるためにある道具は存在しない。というのも、理由は単純明快。
私が、望まないから。
私が望む物は、何でも手に入る。まぁ、私が望むものといえば本と食べ物と、玩具くらいのものだけれど。
それとは逆に、望まない物は何も出て来ない。痛み、苦しみ、煩わしさ――私に不快感を与える物、全て。
だから、この場所は私にとって絶対の安全区域。何人にも邪魔されない、私だけの城。
静かで優しいこの場所が、私は大好き。
……そうだ、もう一つ。もう一つだけ、時計類の他に望まない物がある。
それは、「人間」。
時計類は必要ないから望まないだけだが、「人間」という存在に関してはどうしようもない恐怖を感じるのだ。
昔の私に何かがあったのかも知れないし、無かったのかも知れない。私以外の人間の記憶なんて、とうの昔に消え去っている。それとも、私が意図的に封じ込めたのだろうか?
本来頼るべき「親」という存在も、私には恐怖の対象でしか無い。
何があった?何がどうして、そうなった?
知らない。覚えていない。――――思い出せなくて、良い。
興味は無かったし、一人きりでも満足だから。
しかし、そんな私も一つだけ憧れた存在がある。
一緒に居てくれて、話し相手、遊び相手になってくれる夢のような存在、「友達」。その存在だけは、恐怖と共に少しの期待、そして憧れを抱かせる物だった。
けれど、幾ら夢のような存在とはいえ人間は人間。動物を友達にするのは何だか気が引けたし、縫い包みの友達は面白味がない。かといって、恐怖の対象を友達にするのも嫌だ。
だから、今まで私は望まなかった。
ずっと、意識の底に追いやっていた。
望んだら最後、傷ついてしまう――絶対の安全区域が、「絶対」で無くなってしまうような気がして。
それ程迄に恐ろしいのに、どこか甘美な存在。その事実が、より一層恐怖を煽る。
欲しい。けれど怖い。それでも欲しい。その誘惑が怖い。
無限ループの、悪循環。
それだけで嫌な気分になってしまう。絶対の、安全区域の筈なのに……。
こんな時は、別のことで気を紛らわせるに限る。
「ほんをください、できるだけたくさん」
目の前に、本の山。これだけあれば、暫くは退屈せずに済みそうだ。
すっかり安心しきって、私は本に手を伸ばした。
………
……
…
しまった。私は、選択肢を間違ってしまった。
何故。何故、青春友情物や、学園物の小説ばかりを選んでしまったのか。面白い小説なら、他にも沢山在っただろうに。否、此処にある本の山は全部友情がテーマの物語だ。
何故こうなった? 全く、誰の陰謀だ!?
違う、目を背けるな。此処にある本は、全て私が望んだ物。私が望まない物は出て来ない。そういう世界じゃないか、ここは。
本当は友達が欲しいいんでしょう?
認めろ。認めたくない。
誘惑に負けそうな好奇心と、自分を守ろうと泣き叫ぶ恐怖心。
二つの意志が相反し、鬩ぎ合い、火花を散らす。
よく「私の中の天使と悪魔」という表現があるが、まさにその通りではないかと思う程に。ああ、頭がおかしくなってしまいそう!
頭の中でぐるぐると感情が渦を巻き、私は…………。
「――――ともだち。が、ほしい、です」
「……で、今あたしがここに居るって訳?」
彼女からの問い掛けに、私はこくりと首を縦に振る。
「友達――ねぇ、ふぅん…………」
値踏みするように、私の髪から足の爪先まで見回す彼女。……擽ったいような、よく分からない感覚。不快感かどうかも分からない。
友達を望んだら、目の前に彼女が現れた。私と同い年程の少女。
凛とした意志の強そうな眼を持っていて、何となく自分とは正反対の存在だと思った。
「ま、良いわ。あたしの意志がどうであれ、「友達」になる為に来たのなら仕方ないわね」
「…………?」
「……冗談よ。そんな悲しそうな表情しないで頂戴」
「かなしそうなかお、してましたか」
「自覚、無かったの? ……ふふっ」
驚いたように私を見て、彼女はニッコリと笑う。解らない。何故彼女は笑う?
「何、ポカンとしてるのよ」
「え、あ……ごめんなさい」
「謝らないでよ、別に責めてなんか居ないわ。…………それと、敬語も止めて」
「ご、ごめんなさい」
「……」
「…………ごめん」
「宜しい。そう言えば、あんたの名前は? ……ううん、その前に私の名前が必要ね」
「えっ? なまえが……ないの?」
名前が、無い? どういうこと?
「正確に言えば、思い出せないのよ。此処に来る前、在った筈なんだけどね。何かしらの名前が」
「そう、なんだ……」
「だから、あんたが付けなさい」
「うん。
………………………………………はい?」
付けろ? 私に? 名前を? 彼女の? 頭の中でクエスチョンマークが乱舞する。
本当にさっきから、何を言っているのだろうか彼女は。
「だって、あんたの為に来たのよ? 名前も記憶も無いんだから、あんたが付けなさい」
「え、でも……いいの?」
「当たり前でしょ。他人に名前付けて貰うなんて。そうそう無い経験よ。名前を付けるのもね。だから、光栄に思いなさい」
「わ、わかった。…………じゃあ」
何にしよう? 彼女の、名前。外国人名と日本人名どちらが良いのか? いや、そもそも苗字は必要なのか?
彼女には可愛い名前と格好良い名前、どちらの方が似合うのか? 気に入って貰えなかったらどうしよう……否でも、そんな事を言い始めたら切りがない訳で。
私は意を決して、思い浮かんだ名を告げた。
「トモコ……は、どうかな」
私の告げた名に、喜ぶでもなく怒るでもなく彼女は首を傾げる。
「トモコ? 随分普通の名前ね。ま、普通の方が好きよ。どうしてトモコなの?」
「それは、その…………」
「何よ、はっきりしないわね。怒ったりしないから、言ってごらんなさいよ」
……本当に、単純な理由なんだけれど。言っても良いものだろうか。
でも、言わないのも駄目だろうな。
「ほんとうに、おこらないでね?」
「解ってるわよ。で? どんな理由?」
「それは――――わたしのはじめてのともだちで、おんなのこだったから…………」
流れる、沈黙。
……やっぱり、変な理由だよね。ポカンとしてるもの。今に、怒鳴られて蹴ったり殴ったりされるんだ……。
嫌だ、そんなの嫌だ。こんな事になるくらいなら、やっぱり友達なんて望まなければ良かった。あんな夢みたいな存在、私如きが望んで良いものじゃ………ッ!
「……ぷっ、何それ! っふふ、あはは、ひゃははっはははははははは!
安易で単純ー! でも、なかなか良い理由じゃないの! 気に入ったよ。
あたしは、たった今からトモコ! あんたの友達さ!」
彼女は、笑ってそう宣言した。
自分がトモコであること。そして――私の、友達であること。
良いの? 本当に? 私なんかの、友達で居てくれるの?
そう尋ねると、彼女――トモコは、快活に笑った。
「何言ってんの、当然じゃない! あんたが望んだから、今あたしはここに居る。
あんたが望まなければ、あたし達は出会えなかったのよ?
なら、あたしはあんたに感謝すべきだわ!」
どうして、そこまで言ってくれるの?
なんだろうこの気持ち、とても暖かくて…………穏やかで。
「あ……とう」
「え? 何よ、何か言った?」
「ありが……とう」
嬉しくて嬉しくて、涙が出そうだ。
「……やっと、笑ったわね」
そうか。これが、友達という存在。
ちょっと気が強くて、けれど私を引っ張って行ってくれる。
一緒に居てくれて、話し相手、遊び相手になってくれる夢のような存在。
「ねぇ、これから一体どうするの?」
「どう、って?」
「ずっと、この真っ白な空間に居るつもり?」
「……」
「その顔は、迷ってるって顔ね。
外に出てみない? あたし、あんたと一緒に外に出たいわ」
「でも……こわいよ。そとは、こわいものがたくさんあるの。きずつくかもしれない。ひどいことされるかもしれない。
なにより――――トモコと、はなればなれになるかもしれない。
それがいちばん、こわいの」
「……馬鹿ね、あんたからあたしが離れる訳無いでしょう。
あたしは、あんたの何?」
「―っ!…………ともだち」
力強いその言葉が、私の不安を吹き飛ばす。
私の心が、生まれて始めて望んだ。
「そとにでる、とびらをください」
真っ白な空間に、一枚の扉。隙間からは、美しい光が漏れている。
「ずっと、いっしょにいてくれる?」
「誓うわ、ずっとあんたの側に居る。あんたも、ずっとあたしの側に居てくれる?」
「…………もちろん」
「そう、有難う。じゃあ、手始めにあんたの名前を教えてくれない? さっき、訊きそびれたから」
「わたしの、わたしのなまえはね――――」
扉を開け、手と手を取り合い。私達は、歩き出す。
絶対安全区域は、もう要らない。
超えた境界線の向こうから、暖かい光が見えた。
一歩踏み出す、勇気
(友達を作る勇気)
(外に出る勇気)
(2012/04/02)